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木曜日、僕の中でHIPHOPがイチバン輝いていた頃、ダイスキだった(いまもね)アーティスト、de la soulを観に行った。何度、彼らの盤に針を落としたことでしょう。
彼らの1stアルバム、3 Feet High And Risingの制作について「Check The Technique」でデイブは語る。
「(曲のアイデアを)誰が出したものなのかは問題ではなかった。それが俺たち4人によるものであっても、俺の妹によるものでも。音楽を楽しむこと、次々と音楽を創り出してゆくことを楽しむ、それがすべてだった」
このアルバム、そしてライブひしひしと感じられた彼らが発するRAWな気持ちよさは、彼ら自身が「楽しむ」ことから生まれていたんだね。
今日も生きざま更新中!
山口デコ
iPad。ネーミング褒めてるひと少ないね・笑。富士通さんとの問題とかもでてきてしまったり。
でも、このまま浸透していくでしょう。iPodとかぶるなんて意見もあるけど「母音」の違いは大きいと思うし、どちらかというとiPodの役割は終わったような気がします。根拠ないけれど。
個人的なインパクトはiBook。電子書籍のこと。Amazonのkindleが登場した時よりもインパクトを感じてるのは僕だけ? それともたまたま?
そう、きっとたまたま。今日、事務所までの道のりでふと思ってしまっただけかも。書籍や雑誌が「紙」である必然性・合理性が今後どこまで存続していけるのかしらと。
今は「日本語」に書籍や雑誌も守られているけれど、コンテンツの販売価格や読みやすさなどのパフォーマスが同等であれば、紙をプラットフォームにしなければならない合理的な説明をせよ!と言われても上手に答えられないなあ、と。
自分のデバイスにコンテンツがデータとして「自分のもの」としてアーカイブされることと、自分の本棚に書籍や雑誌が並んでることにそれほど差異を感じなくなる時がきっとくる。
それがただ「便利なこと」ではなくて、実体のあるプロダクトに対する「情緒的な質感」と同じように自分のアーカイブを愛でるようになる時がくると思う。
というか、デジタルネイテイブたちにとってはあたりまえのような気がする。きっと。
今日も生きざま更新中!
山口デコ
iPad。
あいかわらずネーミングのコピーワークが秀逸。
語感、インパクト、親和性、伝達度、汎用性、どれをとっても優れたコピーワークです。
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山口デコ
最近のブルーノート東京のアーティストの招聘っぷりが個人的には好き。ジャズ・ソウル・ファンク・ラテンなどのお決まりの営業アーティストの合間をぬって、「知らなかった聴いたことないけどそそられる」アーティストがめじろおし。これまでエクスクルーシブな空気がガマンならない時があったけど、それはそれこれはこれ。
この「知らなかった聴いたことないけどそそられる」がキモ。
つまり、プロモーションが成功しているってことだもん。ブルーノート東京、ある時期からプロモーションの手法とクォリティレベルが高くなったと思う。
開演前のスクリーンプロジェクターによる次期公演アーティストのプロモーション映像しかり、毎月送られてくる会報誌しかり、クリエイティブコントロールが効いてて見たり読んだりするだけで興味がわいてくる。
特に会報誌はライブレポートの写真がとてもよくなったんだよ。この空気感を自分も体験したい。そんなキモチにさせる写真。アーティストの写真はおそらく支給だから、得てして写真のクォリティに誌面デザインが左右されてしまうものだけれど、明確なフォーマットコントロールができているので、コントラストやピントが異なる写真が並んでいても誌面の空気が破綻いていない。
ブルーノート東京、ブッキングマネージメントとプロモーションマーネジメントがしっくり機能しているようです。
ちなみに先日のRufus feat. Sly stoneに続いて観たいアーティストは、3月のPiano Masters「MICHEL CAMIRO & CHUCHO VALEDS」。キューバのイラケレって聞いただけでゾクッとしまーす。
今日も生きざま更新中!
山口デコ
子どものころに流行ったスーパーカー消しゴム。ノック式ボールペンで弾いてレースをする。レース会場は畳の部屋、コースは畳の縁だった。
レースなので友達と競い遊ぶのももちろん楽しかったけれど、この遊びは、ひとりで遊ぶのが好きだった。マセラティ、カウンタック、ニウラ、ポルシェ、フェラーリー、マスタング。タイプの異なるいろいろなスーパーカー。ひとりで遊べば、すべてのスーパーカーの運転席を独り占めだ。
想像することがなにも苦ではなかった、いや、想像を想像とも思ってなかった子どものころ。大人になったいまこそひとつのことを十にも、千にも、万にも、数かぎりなく想像しつくして生きていけたら、どんなに幸せだろう。
今日も生きざま更新中!
山口デコ
とあるニートの方のブログに行きつき、小飼弾氏の著書のタイトル「働かざるもの飢えるべからず」が頭にこびりつく。
「ベーシックインカム」について書かれている本の内容については、読んでいないのでここではお話できませんが、「働かなくても生きていければ別にいーじゃん」と考えて生きている人っているのね。
人間って狩猟時代の大昔から、猟場[シゴト場]に行って、狩り[シゴト」をして、獲物[ホウシュウ]を得ることで、生活していたのだよね。きっと。
家族という単位があったのかどうかはわからないけど、その中には[シゴト]ができる人とできない人が当然でてくるはず。
例えば、危険なリスクをともなう狩り[シゴト]に適さない、子どもや老人や女性や病人や生まれつき体の不自由な人だったりが、合理的に考えれて[シゴト]ができない人たち。
できない人は自分で[ホウシュウ]を得ることができないのだから、[シゴト]ができる家族の[助け(扶け)]が必要でしょう。
でも、積極的に何もせずに「働かなくても生きていければ別にいーじゃん」な[シゴト]ができない人がいる家族は、「働いている人のために自分にできることをしよう」な[シゴト]ができない人がいる家族に比べて、[シゴト]ができる人の負荷は高くなるはずだから、家族が得られる[ホウシュウ]は必要な労力に相対して少なくなるはず。
なので、かぎりのある[ホウシュウ]のもとで生活しなければならない家族にとって「働かなくても生きていければ別にいーじゃん」な考えは、家族という構成単位を維持していくのに合理的ではないと思う。
さらに、働くことじたい、人に時間的拘束や体力の消耗など何らかの負荷をかけるものなのだから、働く人にとって働くこと以外で負荷を高く感じてしまうと、そこに道理的・合理的な理由を見いだせないかぎり、[助け]は[負担]になるではないかしら。
例えば、幼い子どものために[シゴト]をするのはふつうは[負担]ではないでしょう。そして、合理的に考えられない[負担]はいつしか[不満]になり、助けたくなくなる。
まして、家族でもなんでもない人たちに向かって「働かなくても生きていければ別にいーじゃん」と主張する人が、「ベーシックインカム」も賛成ですと主張するのは無理があると思う。それとこれとは別。「働かなくても生きていければ別にいーじゃん」は家族にだけ言えばいいこと。
でも、そもそも合理的な判断基準が違うのかもしれないけど。
ひさしぶりに生きざま更新しました!
山口デコ
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