大地の芸術祭「いけばなの家」を見る/十日町
2009年09月10日 15:11

先日、十日町市に帰省した折に、大地の芸術祭の参加作品の
一つである「いけばなの家」を観賞。
ここには9人の名だたる華道家が出展しているが、中に私の
友人の華道家・古流理恩会家元の宇田川理翁さんも
名を連ねている。
理翁さんは名前は翁だが、若くして家元を襲名したため
まだ若く、非常に感性豊かな方で、古流にあって現代華
としての新たな表現に向かって挑戦し続けてい方である。
以前、理翁さんと話をしていたときに、ずいぶんと
生意気を言わせてもらった覚えがある。
「いけばなは花の命をもらって作品を作る。野に咲く花
以上の何かしらがそこに生まれなかったならば、花の命を
奪ってまでいけばなをやる意味など無いんじゃないか。」
いけばなの家の出品作家の一人でもある華道家の
かとうさとるさんの作品集に、その答えのヒントともいうべき
一文が載っており、思わず目が止まった。
以下、『花 かとうさとる作品集』のあとがきより抜粋
亡くなった北条明直先生は「いけばなは、自然の文脈から
草木花を切り離して、人間の文脈に移しかえる作業です。
そこに違った文脈の背馳、葛藤が起こるのは当然で、
それをいかに克服するかが、いけばな芸術の問題点
となります。」と著作集のあとがきに著したが、
いけばなは自明のように生あるものの命を絶つことから始まる。
当然のことだが、切る覚悟のない者にいけばなをする資格はない。
私にその資格があるかどうかはわからないが、「私の花」
を前にして、私は不思議な静けさを感じていた。
(以下、つづく・・・)


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